高校生のワタシへ

自分の高校時代を
振り返って、思うこと。
同志社大学卒業生に聞きました。

vol.08

自分の人生で花を咲かせるのではなく、
花を照らす太陽になりたい

所村 武蔵さん

テレビ朝日アナウンサー

2023年、グローバル地域文化学部卒

飲食店での運命的な出会いをきっかけに野球にのめり込んだ所村武蔵さん。星稜中学・高校から同志社大学へ、名門校で打ち込んだ野球人生は挫折の連続だったそう。壁に直面した時に、それを乗り越える原動力になったのは「野球が好き」というシンプルな情熱。現在はバットをマイクに持ち替え、アナウンサーとして言葉を紡いでいる。

小学生時代/野球との出会い

運動がとにかく好きな小学生でした。当時はイングランドのプレミアリーグが周囲で人気で、マンチェスター・ユナイテッドで活躍していたクリスティアーノ・ロナウド選手に憧れたこともあり1年生で地元のサッカークラブに入りました。しかし練習時間が夜で、「眠いから」という理由とレギュラー争いで誰かと競争するのも苦手で続きませんでした。その後は部活やクラブには所属せず小学校生活を送っていました。

「実家が星稜高校に近く、
野球部の黄色いユニフォームは
物心ついたころから憧れていました」

すると5年生の時に転機が訪れます。ある日、自宅近くの飲食店で母と食事をしていると、星稜高校野球部のユニフォームを着た人たちが入ってきて、ひょんなことから会話が始まり「野球しに星稜来なさい」と声をかけていただきました。この時に声を掛けてくださったのが後に私の恩師となる山下智茂総監督(当時)でした。運動は得意だけれど、野球は遊びでしかやったことないと伝えると、「迷っているのなら、野球を始めなさい」と勧められ、すぐさま友だちが所属していたクラブチームで本格的に野球を始めました。

中学で初めての挫折/学生コーチに

周囲と比較して野球を始めた時期は遅かったのですが、クラブチームではすぐに試合に出ることができました。活躍することで自信が芽生え、卒業後は中高一貫の星稜中学校に進学。星稜中学校は軟式野球で全国制覇を何度もしている強豪チームでしたが、自分ならレギュラーになれるだろうと考えていました。ただ、入学後すぐに、その自信が過信だったことを思い知らされます。

入学当時の自分は身長が150cmに届かず、体の大きな先輩たちのプレーに圧倒される毎日。時速130kmを超える直球や、桁違いの打球の飛距離を目の当たりにして、衝撃を受けたことを鮮明に憶えています。同級生も能力が高い選手ばかりでした。少しでも差を埋めようと練習を重ねたものの、なかなか追い付くことができず……。2年生の夏、一つ上の先輩たちの引退と同時に監督・コーチから「学生コーチとしてチームを支えてほしい」と告げられてしまいました。

「もう選手として野球をすることはできないんだ」。正直、ショックでしたね。監督・コーチからは「所村の人間性を知っているからこそお願いするんだ」と言われましたが、選手としてプレーすることを諦めるという現実を受け入れるのは、簡単なことではありませんでした。それでも、野球の実力では同級生に敵わないことは客観視できていましたし、彼らが懸命に努力する姿を間近で見ていたので、徐々に「自分なりの方法でチームの役に立ちたい」という気持ちが芽生えていきました。野球を辞めたいと思うこともなかったですね。これは自分の長所であり短所でもあるのですが、好きなことや興味を持ったことに対しては、人の何倍も集中して、熱量を注ぐことができるんです。辞めたいと思わなかったのは、それだけ野球が好きだったからなのだと思います。

チームを支える立場を経験したからこそ、得られた学び、喜びもありました。学生コーチは下級生の指導も任されていて、練習メニューは自分が考えていました。ただ、たとえ先輩の指示であっても、同じ中学生なので言葉だけで行動が伴わなければ、素直に従ってくれない選手もいるじゃないですか(笑)。 ですので私は下級生と共にメニューをこなし、ランニングなら誰よりも良いタイムを、筋トレなら誰よりも多く回数をこなすように努力しました。そうやって信頼関係を築いた下級生たちが、練習で成長した姿を見せてくれる時は嬉しかったですね。後輩から悩みを打ち明けられたり、相談されたりする機会も増え、自分だけではなく一人ひとりがいろいろな葛藤を抱えながら野球に取り組んでいることに気づけたことも大きかったです。

実は学生コーチとして指導した当時の1年生たちが、星稜高校に進学して高校3年生になった時に夏の甲子園で準優勝したんです。一緒にトレーニングをしていた後輩たちの活躍を見るのは本当に嬉しかったですね。大会が終わった後に「ホームランを打てたのは所村さんのおかげです」とメッセージを送ってくれた子もいて。こちらこそ「ありがとう」という気持ちでした。

「学生コーチを打診された時の感情は、
今も心に刻まれている気がします」

結果的に、中学3年間で選手として公式戦に出場できたのは代打での1試合のみ。それでも学生コーチになった3年生では、チームとして春と夏の全国大会に出場することができました。選手として挫折を味わったこと、学生コーチとして視野を広げられたこと、中学時代の経験は今も自分の土台になっています。

恩師への“反抗”/一人の選手として挑戦

星稜中学校の野球部員は、基本的に学内推薦を受けて星稜高校の硬式野球部に入ります。ところが、私はチームメイトとは違って、学内推薦が一時保留されてしまいます。実は小学生の時に所属していたクラブチームでソフトボールの投手経験があり、先生方に「高校ではソフトボールをやってみないか」と提案されたことが理由でした。「ソフトボール部なら試合に出るチャンスが増えるかもしれない」。一瞬、そんな考えが頭をよぎりましたが、野球がしたいという思いが揺らぐことはなく、先生方の理解も得て、憧れていた星稜高校硬式野球部に入ることができました。

選手として活躍することを目指してスタートした高校生活でしたが、すぐに分岐点が訪れました。入学から2ヶ月が経った6月、山下総監督から「マネージャーをしてほしい」と告げられたのです。中学では学生コーチとしてチームを支える道を選びましたが、この時は「自分は野球をしたくて星稜高校に来ました。マネージャーは絶対にやりたくありません」と即答しました。今振り返ると、せっかくの提案に対して熟考もせず、その場で拒否するなんて失礼な行動だったと理解できるのですが、「選手として挑戦したい。試合に出たい」という気持ちが抑え切れなかったのだと思います。

自分の思いをはっきりと伝えられたのは、中学3年生の夏の全国大会での経験も影響しています。チームは1回戦で敗退。私はベンチでスコアを記録していたのですが、ゲームセットの瞬間まで傍観する他ない無力感から悔しさが込み上げてきたんです。良い感情なのかは分かりませんが、「試合に出なければ何もできないんだ」と強く感じました。結果的に山下総監督への“反抗”は、「所村は本当に野球が好きなんだ」「ガッツがあるじゃないか」という評価になったようで、高校3年間は一人の選手として扱っていただきました。

3年生の夏は「代打の切り札」として
念願のベンチ入りを果たした
(写真は所村さん提供)

選手として挑戦したいと宣言した以上、練習では決して手を抜くことはできません。高校3年間は必死に練習を重ねました。毎朝7時に登校して授業前の自主練習。授業後は19時まで全体練習があり、その後も室内練習場でトレーニングや技術練習をし、帰宅するのは22時前という3年間でした。特に印象に残っているのは冬場の「2000本ティー」。毎日2000球のトスバッティングをする星稜高校の伝統メニューで、8時30分に練習を始めて、打ち終わるのは16時頃。テーピングを巻いて、手袋を二枚重ねにしてもマメができるくらいバットを振りましたね。2000本ティーは2人1組で行うのですが、私は一学年上の先輩とペアを組んでいました。2年生の夏にチームは夏の甲子園に出場し、ペアを組んでいた先輩もスタメン出場。私は応援スタンドにいましたが、一緒に厳しい練習を乗り越えた先輩が甲子園でプレーしている姿を見た時は感動しました。その試合で先輩はヒットを打てなかったのですが、試合後に「たくさんボールを投げてくれたのに、打てなくてゴメン」と言われた時は涙が止まらず……。自分も先輩のように感謝を伝えられる人間になりたい、そう思ったことを覚えています。

3年生の夏は背番号を付けてベンチ入りしましたが、地区予選の準決勝で負けてしまいました。試合は8回表の攻撃を終えた時点で7対2とリード。しかし8回裏に3ランホームランを含む猛攻を浴び、一挙5点を失い同点に追いつかれ、その後延長11回に失点しサヨナラ負けしました。個人としては延長10回表の攻撃のシーンが忘れられません。私は代打で出場することが多かったのですが、投手に打席が回ってくる展開となり、チームメイトは「絶対に出番があるから準備しておけ」と声を掛けてくれたんですが、監督から自分の名前が告げられることはなく……。もっと直接試合に関わりたい、選手として役割を担いたい、そう思って練習を重ねてきましたが、「この場面で名前を呼ばれないということは、まだ何かが足りないんだ」と無力感が再び心を覆いました。そんな感情が影響したのか、ゲームセットの瞬間もはっきりと覚えていません。

野球観を変えた一球/キャンパスライフ

最後の試合で打席に立てなかった悔しさもあり、大学で野球を続けることに迷いはありませんでした。それに中学生では学生コーチ、高校でもレギュラーになれなかった自分が大学野球で活躍する姿を見せられれば、後輩たちに勇気を与えられるかもしれないという思いもありました。とはいえ、控え選手の私にスポーツ推薦で進学する選択肢はありません。両親からは「将来、自分が誇りに思える大学を選びなさい」と言われ、私自身も野球をするためだけに進学することには違和感があったので、高いレベルで野球を続けながら文武両道を実践できる同志社大学を選びました。実は姉も同志社大学に通っていて、キャンパスの雰囲気や京都での生活の様子を聞いていたという安心感も大きかったです。

野球部では3年生でレギュラーに定着。打順はクリーンナップを任され、中学生の頃から思い描いてきた「選手として試合に関わる」という目標を実現できました。チームを代表してグラウンドに立つ責任も実感し、野球人生の中で最も充実した一年でした。そして私の野球観を変える試合も、3年秋のリーグ戦で訪れます。先発投手は、その日に誕生日を迎えた同期の親友。初回から好投を続け1対0のリードで最終回を迎えました。同志社の1得点は私がホームベース踏み、親友は完封勝利目前。勝てば最高の思い出になるはずでしたが、2アウト走者2塁の場面で、私は敗戦につながるエラーをしてしまうのです。この敗戦によってリーグ戦の自力優勝の可能性も消えてしまい、親友や先輩への申し訳なさから初めて野球をやめたいと思いました。辞めずに済んだのは、野球を通してであった仲間と恩師への感謝の気持ちがあったからでした。恩返しをしたいその思いで結果的に4年春のリーグ戦までプレーを続けました。ただ「自分は野球で身を立ていく人間ではないんだ」と考えさせられ、私の野球観と人生を変えたあの一球は、忘れることができません。

「大学3年生のシーズンは
野球人生で最も充実した一年でした」
(写真は所村さん提供)

大学では野球のグラウンドだけではなく、キャンパス生活からも多くの学びと刺激がありました。所属していたグローバル地域文化学部は特に体育会の学生が少なく、いろいろな価値観や目標を持った人と接するなかで、大きく視野を広げられたと感じています。入学当初、将来の目標は高校野球の監督になることでした。今就いている職業にも憧れはありましたが、本気でなれるとは思っていませんでした。当時は野球という世界しか知らなかったのだから、無理もありません。それだけに、最初の授業で隣に座った学生が「将来は国連で働きたい」と語る姿は衝撃的でした。高校までに関わってきた人たちからは聞いたことがない、多種多様なライフプランを持つ仲間に出会えたことで、アナウンサーが憧れの対象から具体的な目標に変わりました。

憧れだったアナウンサーに/野球から学んだこと

アナウンサーになった今、あらためて野球を通じて多くの学びを得てきたと実感しています。星稜中学・高校では「感性を磨きなさい」と繰り返し指導されました。幸運を呼び込める人間は、そのチャンスに気づくことができる人間だ、と。フィールドリポーターとして現場を取材する際も、この「気づく感性」は大きな力になり、「球場に落ちているゴミに気づく感性がなければ、試合の中にあるチャンスにも気づけない」という教えを今も大切にしています。また、同じ花に気づいても、それを綺麗と感じるのか、萎れていると思うのか、感性によって見え方が変わるため、自分なりの感性を磨き続けることが大切だと思っています。

番組制作は野球と同じ団体戦です。「One Purpose」のために全員が与えられた役割を果たすことで成立します。カメラの前に立って話す時は一人だけれど、そこに至る過程に多くの仲間の努力や思いが存在している。そんな部分にも野球との共通点を感じます。ニュースを伝えるという“打席”に立つには、誰からも信頼され、仕事を託される総合力が必要で、これからもさまざまな環境に飛び込んで、自分を高めていきたいと思っています。

現在の目標は、「自分の人生で花を咲かせることではなく、花を照らす太陽になること」です。この根底には、山下総監督から繰り返し言われてきた「花よりも、花を咲かせる土になりなさい」という言葉があります。自分が目立つことばかりを考えるのではなく、誰かを支え、育て、花を持たせられる人物になりなさい、という教えです。 テレビ朝日への入社が決まったことを報告したところ、山下総監督からは「それならお前は太陽だな!(笑)」と言われました。おそらくテレビ“朝日”に懸けてくださったのだと思います。

「報道を極めるという志を持って、
唯一無二の伝え手を目指します。」

報道に関わる以上、照らす花は美しいものばかりではないかもしれません。ただ、目にしたものをどのように解釈するかは、一人ひとりの視聴者の感性に委ねられています。だからこそ、分かりやすく、陰り一つなくニュースを伝える存在になりたい。「話すこと」ばかりに意識を取られるのではなく、「二つの耳でしっかりと聞き、一つの口でお伝えする」。どんな小さな声も取りこぼさないよう、これからも良き心を育み、一隅を照らせるように日々精進していきます。

高校生のワタシへ

高校生の私には、野球がすべてでした。同志社大学で過ごし、社会人になった今は、自分が知っている世界がいかに狭いものなのかが理解できますが、長く同じ環境にいると、どうしても自分の価値観がマジョリティなのだと勘違いしてしまいがちです。だから「今、自分がいる環境がすべてではなく、もっと世界は広がっていくよ」と伝えたいですね。新しい環境に飛び込めば違う世界が見えてくるし、世の中には自分とは異なる価値観を持った人がたくさんいる。いろんな人と会って話を聞いてみよう。そうすれば器の大きな人になれるはずだから。

そして、私は野球人生を通して「努力し続けることの大切さ」を学びました。成長は一朝一夕で感じられるものではなく、「千日をもって鍛となし、万日をもって錬とする」という言葉を、大切に心に刻んでいます。 努力の成果が出るタイミングは人それぞれなので、「周りと自分を比べて焦る必要はない。自分を信じて努力を続けなさい」言ってあげたいですね。

しょむら 所村 むさし 武蔵 さん

石川県金沢市出身。2023年グローバル地域文化学部卒業。小学5年生で野球を始め、星稜中学時代は軟式野球部に所属。3年次に春・夏2度の全国大会出場を果たしたチームを学生コーチとして支える。星稜高校では選手として3年間プレーしたが、高校最後の夏は石川県大会準決勝で敗退。同志社大学では3年次から主力選手として活躍した。2023年テレビ朝日入社。アナウンサーとして入社1年から『スーパーJチャンネル』週末版のフィールドリポーターを担当し、現在は『報道ステーション』のフィールドリポーターを務める

取材・文/加藤徹

撮影/佐藤創紀

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