高校生のワタシへ

自分の高校時代を
振り返って、思うこと。
同志社大学卒業生に聞きました。

vol.02

フェンシングの本質は、
“剣を使った対話”

宇山 賢さん

東京オリンピック・フェンシング男子エペ団体優勝

株式会社Es.relier取締役

2014年、商学部卒

2021年、東京オリンピック。「日本人には絶対勝てない」と言われていたフェンシング男子エペ団体で、日本は金メダルを獲得した。そのメンバーの一人、宇山賢さんは、リザーブ登録から交代出場を果たし、次々と強豪選手を倒して優勝の立役者となった。体育が得意ではなかった音楽好きの少年は、いかにして金メダルを獲得できたのか――。

フェンシングとの出合い/モチベーションは“兄に勝ちたい”

子どものころは体育が苦手でした。放課後も外で遊ぶというよりはビデオゲームやカードゲームに熱中していましたね。音楽教室にも通っていて、最初はピアノをやっていましたが、途中からは多彩な音色を出すことができるエレクトーンを習っていました。

フェンシングに出合ったのは中学生のときです。僕の通っていた高松北中は高松北高に併設された香川県唯一の公立中高一貫校で、二つ上の兄を追って入学したのですが、その兄がフェンシング部に入っていたんです。兄が何部に入っていたのかも知りませんでしたし、僕はフェンシングをフィッシングと間違えるくらい、このスポーツに対して無知でした。ところがたまたまクラスの担任がフェンシング部の顧問で、入学してすぐの授業で「宇山の弟はいるか?」とみんなの前で名指しするんですね。それから毎朝、先輩たちが日替わりで入部を勧誘しに来るんです。僕としても他に部活を決めていたわけでもなかったので入部を決めたのですが、今となっては兄と先輩たちに感謝ですね(笑)。中学生の男子部員は僕を入れても6、7人。毎年しっかり新入生を勧誘しないと、部が存続できない状況でした。

体育は苦手でしたが、男子ならきっと誰もが憧れる剣という武器を使って戦うフェンシングは、楽しく続けられました。中学時代の部活は「楽しむ」ことが主で、厳しく指導されたことはなかったです。ただ、週に1度ほど、顧問の先生や高校生が手ほどきをしてくれるのですが、兄の番になると、僕にだけめちゃくちゃ厳しく指導してくるんですね。「差別するな」と言うと「区別や」と言い返されたりして、もう兄弟げんかです。なので、当時はフェンシングでも家庭内の序列でも、「兄を超えてやる」というのが僕のモチベーションになっていました。

「先輩たちの執拗な勧誘を受けて
フェンシング部に入りました(笑)」

最初はフェンシングを楽しんでいるだけだったのですが、だんだん勝つことに面白さを感じるようになりました。というのも、日常生活で人をたたいたり、なぐったりしたらだめじゃないですか。それがフェンシングだと、剣という道具を使って堂々と人を攻撃していいわけです。今までゲームの世界でしかできなかったことが、リアルにできる。その不思議な感覚にはまったんですね。それに、フェンシング部がある中学は県内でうちだけだし、部員も少ないので、所属さえすれば全国大会に出られる (笑)。まあ、全国に行ってもすぐに負けて帰ってきていたので、全国レベルの結果は一つもなかったですが。

高校2年/インターハイ優勝と太田雄貴さんとの出会い

高校はそのまま高松北高に進むか、他の高校を受験するかで迷いました。実は中2のころからすごいバンドブームで、僕もバンド活動をしていました。楽器はドラム。エレクトーンをやっていたこともあり、挑戦してみたらある程度できたので楽しくなって(笑)。友達とスタジオに集まってワイワイやってました。それがすごく楽しかったので、高校は軽音楽を部活としてできて、勉強と両立できるような学校に行きたいなと思っていました。ところが顧問から「おまえはまだエペをやっていないだろう。それくらい背が高ければエペで活躍できるから、高校でも続けてみないか」と薦められ、高松北高でフェンシングを続けることにしたのです。身長は当時すでに184cmくらいありました。

高校時代はフェンシング、勉強、バンド活動と結構忙しかったです。僕は国公立大や有名私大を目指す文系の特進クラスだったので、補習も校外模試もめちゃくちゃやっていました。得意な科目は英語、世界史、国語、苦手なのは数学、それと体育(笑)。バンド活動は高校時代も続けて、文化祭で演奏したり、ライブハウスで演奏したり、他校の生徒と一緒にライブを企画したりしていました。土曜日は午前中でフェンシングの練習が終わるので、洗濯物を親に預けて、午後は機材を持ってスタジオに直行です。コンテストに出たこともあったのですが、結果は残せず、音楽の世界の厳しさを知りましたね(笑)。でも音楽に関わること、楽器を演奏することは楽しいので、今も趣味として続けています。

日本は当時、世界で勝つために、フルーレ、エペ、サーブルの三種目の中で身長が競技力にあまり関係しないフルーレを強化していました。その結果、北京オリンピック(2008年、フルーレ個人銀)とロンドンオリンピック(2012年、フルーレ団体銀)という好成績につながりました。そういう流れもあって、僕も始めたときはフルーレだったのですが、他の人より背が高いことから高校でエペもやるようになりました。

太田雄貴さん(右)との出会いが大きな転機となったという
当時高校2年生の宇山さん(写真は宇山さん提供)

僕のフェンシング人生の一つのターニングポイントになったのが、高2のときのインターハイ・エペ個人の優勝でした。これは、背が高いだけで勝ったようなものだったのですが、その10日後くらいに、太田雄貴さんが北京オリンピックでメダルを獲得したのです。それで周囲から「おまえもオリンピックを目指せるぞ」と声をかけられるようになったのですが、僕自身はまだあまりピンと来ていませんでした。ところがその2カ月後の国体に出場したとき、顧問の先生が会場に来ていた太田さんと会わせてくれたのです。そのとき、太田さんに対して不思議と親近感をもてたんですよね。オリンピックで活躍していた人は雲の上の存在だと思っていたのですが、実際会ってみるとすごく気さくな方で、同じ人間なんだなと思ったのを覚えています。しかも後に同志社大学の先輩後輩の関係になるのですから、不思議な縁ですよね。

また、そのとき新しいコーチに出会ったのも大きかったです。やはり同志社大学のフェンシング部出身で、太田さんを指導したこともあるコーチだったのですが、世界を目指すなら俺が教えてやると言われて。それからフォームづくりやメンタルの持ち方、駆け引きの仕方などを教えてもらうようになりました。これらの出会いや経験などから、少しずつ「オリンピック」という舞台を意識するようになりました。

3連覇の大学時代/グリップ(剣の持ち手)の変更が奏功

同志社大学に進んだのは、フェンシングを続けられるのと、好きな英語をしっかり学べそうというのが主な志望動機で、スポーツ推薦をいただけたこともあって商学部を受験し、入学しました。

大学に入って他大学を含めライバルが増える中、自分の武器を見つけられないことで1年生のときはまったく勝てず、悩んだ時期もありました。そこで先輩やコーチに相談し、グリップをしっかり握るスタイル(ベルギアンスタイル)から浅く握るスタイル(フレンチスタイル)に変えたんです。浅く握るぶん、リーチが延びて遠いところから攻撃できるのですが、パワーのある選手が相手だと剣がはじかれてしまうリスクがあるとコーチには言われていました。しかしその頃は国内でも勝てていなかったので、やってみる価値はあるだろうと、思い切って変えたのです。この変更により自分の武器というか、強みを生かせるスタイルを見つけることができ、徐々に勝てるようになり、2年生から4年生まで全日本学生選手権・エペ個人で3連覇することができました。この記録は史上初で、現在でも破られていません。でも強い学生が増えてきているので、記録が破られないか毎年ドキドキしています(笑)。

大学4年次に2020年のオリンピックの開催地が東京に決定したことで、一気にオリンピックとの距離が縮まりました。太田さんのようにあの舞台に立ちたいと強く思うようになり、オリンピック出場、メダル獲得を目指すようになりました。

音楽で培った独特のリズムで攻め込む宇山さん(右)。
写真提供: © 公益社団法人 日本フェンシング協会:Augusto Bizzi/FIE

日本代表選手として国際大会で戦うようになってから、さらに強みがないと強豪国の選手には勝てませんでした。そこで自分の強みにしたのが「フットワーク」でした。相手を惑わす戦法としてフットワークは有効で、日本代表チームでも重要視されている項目の一つです。ここで幼少の頃から培ってきた音楽の感覚が生きました。リズム感覚には自信があったので、日本代表チームのコーチと練ってあらゆるフットワークの種類を構築してひたすら練習していましたね。周りの国からしてみれば「1テンポとかハーフテンポとか何を言っているんだろう」と思われていたと思います。自分の強みができたことで、さらに独自のスタイルを確立でき、東京オリンピックではこのフットワークを生かして相手を惑わせ、得点を重ねることができました。

東京オリンピック/リザーブ登録からの大逆襲

東京オリンピックでは、1チーム3人で行われる男子エペ団体戦の4人目の選手、つまりリザーブ(団体補欠選手)登録でした。個人戦に出られないことが決まって、当時はすごく悔しくて落ち込みましたね。でも、チームとして狙っていたのは団体戦での金メダル。僕が団体戦で交代出場するときは日本が劣勢な場面しかないでわけですから、その状況をどうひっくり返すか、日本にどう流れを持ってくるかを考えて準備をしようと気持ちを切り替えました。なので最初のアメリカ戦で途中交代で出場したときも緊張でガチガチにあることは全くなく、むしろ「これでやっと、ずっと目指してきたオリンピック選手になれたんだ」という、嬉しさのほうが強かったですね。ピスト(フェンシングのコート)に立った時の風景は今でも鮮明に覚えています。

エペ男子団体戦は、3人が相手チームの3人と総当たりで戦い、9試合の獲得ポイントの合計で勝敗を決める。1回戦の相手はアメリカ。22対28と6点リードされた第8試合に、宇山選手は見延和靖選手に代わって出場。7-3で勝って日本に流れを引き寄せ、最終的に日本は45対39とアメリカを逆転、準々決勝にコマを進めた。

リードしているチームの戦法として、流れに乗って一気に攻める戦法と、リードを守ろうとする戦法の2パターンがあります。第8セットの僕の相手は後者で、初めから守りに入ったので「これはいける」と思いました。ピストは幅1.5メートルから2メートル、縦14メートルと決まっているので、攻めに出たほうがエリアを広く使え、そのぶん相手は動けるスペースが狭くなる。そこで相手が反撃に出てきたところをカウンターで突く。そんなふうに、僕が試合をコントロールする展開を作れました。後で「宇山の活躍がなければ日本は1回戦で負けていた」と言われたのは、リザーブ登録になったことを見返してやりたいという気持ちが強かったこともあり、とてもうれしかったです。あきらめないで準備してきてよかったなと思いました。

準々決勝、世界ランキング1位のフランスを大接戦のすえ45-44で下した日本は、準決勝で韓国を45-38と圧倒、強豪ROCとの決勝戦に臨んだ。宇山選手は第5試合、苦手とするセルゲイ・ビダ選手を相手に6連続ポイントを奪取するなど、8-6で勝利。合計45-36でROCを押し切り、見事優勝を飾った。

強敵ROCを下して金メダルに輝いた日本男子エペ団体チーム。右端が宇山さん。
写真提供: © 公益社団法人 日本フェンシング協会:Augusto Bizzi/FIE

準決勝で韓国に勝ってから、決勝まで3時間もありました。その時点で金メダルか銀メダルが確定していたので、お祝いのメッセージが携帯電話に次々と入ってきていました。でも僕は冷静に、残り3試合で当たる選手の過去映像やデータを見直して、ずっとシミュレーションをしていました。決勝の相手は強くて何度も負けていたチームでしたが、シミュレーション通り戦えたことで結果が出ました。会場が無観客だったというのも、普段通りできた要因かもしれません。僕らは全日本選手権でも会場が満員になった体験がないのと、国際試合もずっとアウェーでの試合が多かったので逆境に強いというか、逆境が常なので、そういう状況に慣れていたのかもしれません。逆に、有観客で会場がワーッと盛り上がっていたら、ホームなのに雰囲気に飲まれていたかもしれないですね。

頭を使って勝つ/引退と会社の立ち上げ

フェンシングは「剣を使って相手と対話をする」競技なんです。こちらが攻めようとすればするほど、相手は守りに入る。だから「自分がこう突きたい」ということより、「相手がどう思っているか」を先に読んだほうが強いんです。「頭を使って勝つ」のは僕が貫いてきたスタイルです。頭を使って勝つ。僕は時々しゃがんだりするのですが、それは相手の逃げやすい行動パターンを消す技術なんです。そうやって相手を惑わせるのも、対人競技の面白いおもしろいところだと思いますね。ルールの中でいかに最大限頭を使って自由に表現できるか、それができた人が強いスポーツだと思います。

東京オリンピックが終わったら現役を引退するということは、最初から決めていました。決勝では「このピストに全て置いて帰る」という気持ちで戦っていました。狙っていた舞台で一番獲りたい色のメダルと獲って引退でき、やり残したこともないですし、支えてもらった方々への感謝でいっぱいです。

現役引退後には、ありがたいことにいろいろなところからフェンシングの指導や講演などの依頼がありました。片手間にこなすのではなく、自分の経験や思いを継続的に発信できる場が必要と感じ、2022年に株式会社Es.relier(エス・レリエール)を設立しました。フランス語でEs.はフェンシングを意味するエスクリムの「エス」、relier(レリエール)は人と人をつなげる、という意味です。僕としては、運動を学ぶ機会がなく、苦手意識を持ってしまった子どもたちや、子どもたちを指導する人をサポートできるシステムの構築や育成方法の確立などをしていきたいなと思っています。運動というか体育が得意ではなかったのに、いろんな縁があってフェンシングという自分に合ったスポーツに出会えたことで、オリンピックで金メダルを獲ることができた。この経験を生かしていきたいですし、ゆくゆくはフェンシングだけでなく、いろんな競技に対象を広げて、スポーツを通じてどんどん人と人を繋げていけたらいいなと思っています。今はそのための勉強と準備をしているところで、4月から筑波大学の大学院に入学し、スポーツウエルネス学を専門に学び始めたところです。

スーツの襟には剣をモチーフにしたラベルピンが

高校生のワタシへ

「もっと勉強しておけ」と言いたいですね。もちろん高校時代も結構勉強はしていたつもりですが、もっと自分から率先して情報を集めて自分の力にするということができたらよかったなと思います。僕らのころは“ガラケー”でしたが、今はスマホやPCで練習方法とか、うまくいかなかったときのメンタルの持ち方とか簡単に検索できますよね。英語や他言語まで範囲を広げるとさらに欲しい情報が見つかる。わからなければ調べ、先生に聞いてみればいい。そんなふうに高校生のみなさんには、1日のうち10分でもいいから、自分のわからないことを減らし、能力を伸ばす方法を調べて勉強する習慣を持つこと、そしてそれを実践していろいろな経験を重ねていってほしいなと思います。大人になるとなかなか勉強することに時間をたっぷりは費やせなくなってしまうので、今ある時間を最大限有効に使って欲しいです。

また高校での勉強は、今は大人になって役に立つかわからないものでも考え方やアプローチ方法は絶対役立ちますし、自分の武器になることは間違いないので目の前の授業や宿題にも一生懸命向き合ってほしいなと思います。あとは存分に高校生活を楽しんでください。見本となれるよう僕もこれから頑張ります。

うやま 宇山 さとる さん

1991年12月10日、香川県生まれ。中学生時にフェンシングを始め、高松北高2年生でインターハイ優勝。同志社大学では高い身長を生かし、2年次から全日本大学選手権3連覇。4年次には全日本選手権優勝。約10年間の日本代表選手としての活動を経て、2021年東京オリンピック男子エペ団体ではリザーブ登録ながら、1回戦から決勝まで出場し金メダル獲得に貢献。2022年、株式会社Es.relier(エス・レリエール)を設立。2023年4月から筑波大学の大学院に入学

取材・文/駒井允佐人

撮影/慎 芝賢

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