高校生のワタシへ

自分の高校時代を
振り返って、思うこと。
同志社大学卒業生に聞きました。

vol.07

できる方法を探した瞬間から、夢は目標になる。
実現できる可能性がゼロから1パーセントになる。

中西 哲生さん

スポーツジャーナリスト/パーソナルコーチ

1992年、経済学部卒

サッカー部のない高校に入学し、クラブの練習は週3日。壁を相手にボールを蹴り、ひたすら走り込む毎日。「できない言い訳を探す人生ではなく、できる方法を探す人生」を貫き、Jリーグ1期生として活躍した中西哲生さん。現在はスポーツジャーナリスト、パーソナルコーチとして、日本のスポーツ、そしてサッカーの発展のために提言をし続けている。

小・中学時代/アメリカで「プロ」に目覚める

もともと野球が好きだったんです。父は当時、名古屋大学の助教授だったんですが、学生野球の経験者だったので、日曜になると早朝野球について行ったり、近所の芝生広場で父や弟とキャッチボールをしたりして遊んでました。サッカー少年団に入ったのは小3のときです。本当はリトルリーグに入りたかったんですが、近くにチームがなくて、 仕方なくという感じで。でも、それからはサッカーばかり。そのせいで成績が上がらず、親父にはいつも「勉強しろ」と怒られていました。そういえば、その頃は絵を描くのも好きでしたね。週1回、学校帰りにわざわざ電車に乗って絵画教室に通っていました。小学生にしては珍しかったんじゃないですか。

中1のとき、親父がアメリカのスタンフォード大学で研究をするというので、家族全員で移り住みました。サンフランシスコの南、シリコンバレーにあるパロアルトという町です。ただ、行ったのが5月だったので、6月からすぐに夏休み。しかも3カ月間(笑)。アメリカの子どもたちはたいてい、夏休みにサマーキャンプに行くので、僕も、近くのサンノゼという町にあるプロサッカーチームのサマーキャンプに行かせてもらいました。当時、アメリカには北米サッカーリーグ(NASL)というのがあって、結構盛り上がっていたんです。キャンプでは最初中学生のチームに入ったんですが、すぐに大学生のチームに移りました。「お前はもっと上でやりなさい」とコーチに勧められたからです。

当時のポジションはセンターフォワードでした。でも、大学生相手でも全然やれていましたよ。逆に、体が大きい人たちをかわしてゴールを決めるのがすごく楽しかった。キャンプの後、9月から地元のクラブチームに入ったのですが、ここでも「プロになれるぞ」とコーチに言われ、その気になって(笑)。当時、日本にはプロリーグがなかったので、アメリカで初めて「サッカーを職業にできるんだ」と知った感じでしたね。

アメリカでは日本人学校ではなく、地元の中学校に通っていました。日本人は2、3人しかいなかったですね。毎日決まった時間割で、午前中は図工、数学、体育などの選択科目、5限と6限が、英語を話せない人たちのインターナショナルクラス、最後の7限目がパソコンの授業でした。確かMacの1号機を使って、 計算のプログラミングを学んでいた記憶があります。

翌年帰国し、公立中学の2年生に編入しました。当時はアメリカの大学を出て、プロサッカー選手になる、というイメージを持っていたので、英語をブラッシュアップするために帰国後も英会話教室に通っていました。ところが、1年日本にいない間に、さらに勉強についていけなくなってしまったんですよね。

「中3のときは自分の人生の中でも
かなり成長した1年だったな、と思います」
(写真は中西さん提供)

中学ではサッカー部に入ったのですが、最初はあまり試合に出られませんでした。3年生のレベルが高くて、名古屋市でベスト4に入るようなチームだったので仕方ないんですが、アメリカで活躍していた頃と比べると落差が大きく、ちょっと辛かったですね。試合に出るようになったのは中3になってから。キャプテンになって、名古屋市で優勝し、愛知県で優勝して、東海大会の決勝まで行きました。僕自身も県選抜のキャプテンに選ばれたりして、いま振り返ると、中3のときは自分の人生の中でもかなり成長した1年だったな、と思います。

サッカー部のない高校へ/個人練習で自分を磨く

ただ、高校進学の際は親父と揉めましたね。サッカーを続けるなら、高校選手権(全国高等学校サッカー選手権大会)に出るような強い学校でやりたいと思うじゃないですか。愛知県でいうと、当時は愛知高校、中京高校(現・中京大学附属中京高等学校)、岡崎城西高校が3強でした。でも親父に反対され、入ったのが親父のいた名古屋大学の付属高校(名古屋大学教育学部附属中・高等学校。以下、名大附属高)です。ところがそこは強豪校どころか、サッカー部すらないんですよ。それで愛知FCというクラブチームに入ったんですが、ここがたぶん、自分の中では大きな分岐点だったと思います。

愛知FCの練習は週3日だけでした。しかもいろんな学校の生徒が集まっているので、テスト期間になると人がいなくなっちゃうんですね。今日は3人だけ、みたいなこともよくありました。それで自然と個人練習の比重が高くなったんですが、結果的にはそれがよかったと思います。やらなくてはいけないことを自分で考えて練習するようになったから。強豪校の選手に比べて自分が足りないと思ったのは、まず体力です。だから学校帰りに毎日走ることを自分に課しました。30分、1時間と、だんだん距離を長くしていって。2、3年生になると後輩たちとも走るようになりましたが、人数が増えるとまた競うようにして走るんですね。自分で自分を追い込むというのは大変なんですけど、そういう練習をこの頃からやっていました。

愛知FCの練習がないときは、公園で壁を相手にボールを蹴るか、2つ下の弟と蹴り合っていました。ベンチに当たったらゴールとか、鉄棒の枠に入ったらゴールとか決めてね。だからクラブの練習日は楽しみでしたよ。やっぱり人数が多いほうが楽しいし、ゴールがあるだけでうれしかった(笑)。それに愛知FCのキーパーが結構上手だったんですよ。僕は左右均等に蹴れるので、いろんなシュートを決めると、キーパーも悔しいからめっちゃ練習する。それでさらにうまくなるから、僕もまた練習する。そうやって互いに成長できたんですよ。当時は、自分のやっている練習方法が正しいかどうか、正直わからなかったです。でも、自分でいろいろ工夫して練習していたおかげで、自主性はすごく磨かれたと思います。やらされる練習じゃなくて、自分がやりたくて練習していたので、楽しくて仕方がなかった。だから、サッカーをやめたいと思ったことなんか一度もなかったですね。

高校時代。「自分がやりたくて練習していたので、
楽しくて仕方がなかった」
(写真は中西さん提供)

クラブでは1年生のときから試合に出ていましたが、高校選手権はやっぱりうらやましく見ていました。もちろんクラブチームの全国大会もあったんですが、今のようにJリーグの下部組織がたくさんあるわけではないので、主流ではなかった。それでも高2のときは日本のユース代表候補に選ばれました。愛知県から選ばれたのは1人だけで、しかも何年かぶりということでした。思えばそれが、僕がいちばん日本代表に近かった瞬間ですね(笑)。だから、自分としてはすごい成長実感がありました。ただ高校選手権に出ていないので、このままで自分は大丈夫なのかって思いはずっとどこかにありましたね。

その頃、北米サッカーリーグが低調になって(1984年で終了)、アメリカの大学を出てプロになるという計画は自然と立ち消えていました。実は高3のときに読売サッカークラブ(以下、読売クラブ)から誘われて、冬休みになると東京のよみうりランドに練習に行っていたんです。当時はラモス瑠偉さん、与那城ジョージさん、都並敏史さんらがいて、みんなめっちゃうまかった。それで高校を出たら読売クラブに入ろうと思っていたんですが、「それは大学を出てからでもいいだろう」と親父が言うんですね。それも大学はもし私学なら早稲田か慶應か同志社じゃなきゃダメだと。学業のレベルが高いし、サッカーもそこそこ強いからという理由でした。それで高3の秋、10月の国体が終わった後から勉強に力を入れ始めたんです。

「親父には、『私学なら早稲田か慶應か同志社じゃなきゃダメだ』と言われました」

ただ、それまでの成績が悪かったですからね。当時の名大附属高は1学年3クラスしかなくて、120~130人しかいないんですけど、何かのテストで128番だったことがありますし(笑)。だからもう、とにかく頑張るしかなかった。同志社大学に決めたのは、早慶より名古屋に近いというのと、試験科目が3科目だったというのが大きな理由です。自分が一番点数を取れる確率が高い国語、世界史、英語に絞れば、苦手な数学を避けられる。しかも、得意だった英語の得点比率が高いというのも自分に合っていました。受験勉強は赤本だけ。3科目の過去問を徹底的に、繰り返しやりました。1日8時間くらいかな。僕の人生でいちばん勉強したのはこのときでしたね。

大学時代/Jリーグ発足が人生の転機に

大学時代は豊かな学生生活でしたよ。京都は学生が学生らしく過ごせる、いいところだったなとあらためて思います。京都には今もよく行くんですが、同志社に関係する人がすごく多いですよね。自分はOBだとか、息子が通っていたとか、親戚の子がいま何年生だとか。仲間意識が強いのか、全然知らない先輩からおごってもらうこともよくあります(笑)。京都の人は冷たいとか言われますけど、そんなことはないですね。

同志社大学のサッカー部は強かったですよ。たまたま僕と同期で、優秀な選手がたくさん入ったんです。高校選手権の経験者とか、ユース代表選手とかね。同じチームに自分よりうまいと思う選手がいたのは、このときが初めてでした。ただこの頃は関東の大学―東海大、順天堂大、国士舘大、筑波大あたりがめちゃくちゃ強くて、インカレではベスト8が最高でした。それでもスタメン11人中10人がJリーガーになったので、大したものだと思います。

「僕がやっているのは『教える』のではなくて『導く』、
『ティーチング』ではなくて『コーチング』です」

Jリーグの発足が決まったのは、2年生のときです。しかも名古屋にチームができると知って、ぜひ地元でやりたいと思いました。だから名古屋グランパスエイト(以下、グランパス)から誘いがあったときはうれしかったですね。家からグラウンドまでは、車で30分くらい。いい食環境と住環境が大事だと思っていたので、これは本当によかったと思います。僕は1992年卒で、Jリーグ1期生ということになります(Jリーグ開幕は93年)。とにかく、当時のJリーグブームは本当にすごかったですね。満員のスタジアムでサッカーをやったことがなかったので、めちゃくちゃうれしかったです。 メディアも毎日のようにJリーグのニュースを流し、僕らも取材されるので、いきなり人生が変わってしまった感じがしましたね。

ベンゲルとの出会い/スポーツジャーナリストへの道

グランパス時代にアーセン・ベンゲル監督と出会えたのは、僕にとってはすごく幸運でした。彼はフランス人ですが英語ができるので、直接話ができるんです。本当、英語を話せてよかったなと思いましたね。僕は2000年に現役を引退した後、ベンゲルが監督をしていたアーセナル(イングランド・プレミアリーグに所属する名門チーム)を何度か訪ねて、練習を見学させてもらったんです。当時はアーセナルがすごく強い時期で、アンリ(元フランス代表)やベルカンプ(元オランダ代表)のような超一流選手がたくさんいました。彼らが毎日どんな練習をして、何をしているのか。それを直接見て、話を聞き、動画を撮らせてもらったんです。プレミアリーグは厳格で、本来そんなことはできないのですが、ベンゲルが特別に許可してくれたんですよ。いま考えると奇跡みたいな話ですけどね。

このときの経験や、グランパス時代にストイコビッチらとプレーして学んだことをベースに、僕は独自の練習法(N14メソッド)を編み出し、これまで久保建英選手(レアル・ソシエダ/スペイン)や中井卓大選手(CFラージョ・マハダオンダ/スペイン)など、いろんな選手のパーソナルコーチをしてきました。今は、全国の小中高生や、同志社大学や筑波大学の学生などにも教えています。僕は教えるときは必ず本人に、何をやりたいのか、どうなりたいのかを聞いて、 それが実現できるように教えているんです。僕から押し付けるようなことはしません。だから「教える」のではなくて「導く」、「ティーチング」ではなくて「コーチング」だと思っているんです。あとは子どもたちが、いかに能動的に取り組める状況を作れるか、そこでいかに効果的なアドバイスができるかですね。たとえば子どもたちに「久保選手はこんな練習をしていたよ」と教えると、みんな喜んで取り組んでくれます。今までできなかったプレーができるようになると、自信がつく。だからみんな「できない練習のほうが楽しい」って言うんですよね。簡単にできてしまったらつまらないじゃないですか。僕は子どもたちにいつも「リミッターを切れ」と言っているんです。できるかな、できないかな、ではなくて、できると信じてやろうって。そのために必要な練習法を僕は知ってるので、それを伝える。それが僕の役目だと思っています。

「ジャーナリストというのは提言することが
仕事だと思っています」

現役を引退したらスポーツジャーナリストになるというのは、実はグランパスに入る前から決めていました。現役時代の9年間は、ずっとその準備をしていたという感じですね。僕は話すことが好きでしたし、英語を活かせるかもしれないというのもありました。サッカー解説者ではなく、スポーツジャーナリストという肩書きにこだわったのは、サッカー以外のジャンルにも対応したかったからです。僕は、ジャーナリストというのは提言することが仕事だと思っています。僕は15年くらい前から、日本のワールドカップ優勝を目標に掲げているんです。もちろん難しいことはわかっています。それでも、あきらめたくない。だから、優勝するための方法をずっと探しているんです。できる方法を探した瞬間から、それは夢ではなく目標になる。実現できる可能性がゼロから1パーセントになります。だからこれからも日本のサッカー、スポーツが今よりもっと良くなるように提言していきたいし、同時に久保選手のような選手を一人でも多く育てられれば。それが自分のミッションだと思っています。

高校生のワタシへ

「そのままでいいんだよ」ですかね。あの頃は強豪校の選手に負けないよう、自分なりにいろいろ工夫をして一生懸命練習していましたからね。時間がないからとか、強いチームじゃないからとか、言い訳をせずに頑張れば絶対なんとかなる。あの頃はそう思ってやってましたし、今も同じように思っています。できない言い訳を探す人生ではなく、できる方法を探すという人生を送れているのも、やっぱりあの頃があったからだと思いますね。自分には何ができるのか、自分はどうあるべきか。それを常に考え、「やるべきことはすべてやった」、そう毎日言えるような人生を送りたいと思っています。

なかにし 中西 てつお 哲生 さん

1969年、愛知県生まれ。名古屋大学教育学部附属高等学校時代に愛知FCでプレー。92年、同志社大学経済学部卒業後、Jリーグ1期生として名古屋グランパスエイトに加入。97年、当時JFL(ジャパンフットボールリーグ)の川崎フロンターレに移籍。99年のJ2昇格、2000年のJ1昇格に貢献する。2000年に現役引退後、スポーツジャーナリストに転身。テレビやラジオで活躍する一方で、パーソナルコーチとして永里優季、久保建英、中井卓大、斉藤光毅などを指導。著書に『魂の叫び J2聖戦記』『ベンゲル・ノート』(ともに共著・幻冬舎)、『サッカー 世界標準のキックスキル』(マイナビ出版)などがある

取材・文/駒井允佐人

撮影/今村拓馬

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