高校生のワタシへ

自分の高校時代を
振り返って、思うこと。
同志社大学卒業生に聞きました。

vol.05

やるからには楽しみたい、
純粋に強くなりたい。

後藤 夢さん

陸上競技選手(ユニクロ所属)

2022年、スポーツ健康科学部卒

走ることが好きではなかった女の子が、駅伝の魅力にハマり、今や日本を代表する中距離ランナーに。今年行われたブダペスト世界陸上にも出場し、何を見て、何を感じたのか。新たなステージを目指す後藤夢さんに話を伺った。

おとなしかった幼少時代/陸上との出合い

小さい頃は、声をかけても全然動かない子だったようです。3人姉妹の末っ子ということもあって、親や姉たちに世話を焼かれすぎて、自分からは何もしない、言葉も発しない。そんな、結構心配な子だったと聞いています。

小学生になると、バレーボールや体操、水泳などいろいろやらせてもらいました。自分からやりたいと言ったのか、やれと言われたのかわからないですが、いろいろやってみて、自分のやりたいことが見つかればいいという感じだったのだと思います。4年生のときに幼馴染と地元のランニングクラブに入ったのも、その一つでした。

ただランニングクラブに入ったといっても、100メートルはいつも最下位くらいだったし、長い距離を走るのはもっと嫌いでした。でも、学校のマラソン大会ではなぜかいつも1番だったんですよね。そのときはただ無心で走っていただけで、走るのが人より優れているとはまったく思いませんでした。だから陸上を本格的にやりたいという思いも特になかったのですが、せっかく始めたのだからと、中学では陸上部に入りました。最初は短距離でしたが、やっぱりいい成績が出せなくて、2年のときに顧問の先生の薦めで中距離を走るようになりました。

中学時代/陸上をやめるはずが強豪校へ進学

中学の練習はきつかったですね。いまの陸上部は週1回休みだと思うんですけど、当時は1週間休みなしが普通でした。土・日曜は一度学校に集合してから、自転車で20分くらいのところにある人工島に行くんですが、そこにある公園の階段で練習するのがすごくきつくて。もう同級生と、どうやったらサボれるかみたいなことばっかり考えてました(笑)。

ただ、やめようとは思いませんでした。いま振り返っても、私が何を動機に走っていたのかは自分でも思い出せませんが、試合が終わったあとの達成感が好きで走っていたのは少し覚えています。初めての全国大会は、2年のときに出た全中(全日本中学校陸上競技選手権大会)でした。結果は、800メートル、1500メートルともに準決勝敗退。でもその頃の自分は悔しいというより、そこまで速く走りたいという気持ちがなかったんですね。どれだけ練習しても陸上が好きという感覚になれなかった。なので、3年の全中まではとにかく頑張って、それが終わったら陸上をやめようと思っていたんです。その全中では最初に800メートルがあって、4位に入賞することができました。そこでもう満足したというか、気持ちが切れてしまって。1500メートルは棄権してもいいくらいに思っていて、結果は10位でした。

陸上部を引退してからは、毎日塾に通ってました。同級生に賢い子が多かったこともあり、私も陸上だけでなく、ちゃんと勉強したいって思っていたんです。高校は地元の学校に行こうと考えていましたが、友だちと進路の話になったとき、「やっぱり陸上を続けたら?」って言われたんです。1学年上で中学記録を持っていた高橋ひなさんが、高校駅伝で有名な西脇工業高校に進学していたし、ランニングクラブで一緒だった子もそこに行くことを聞いていました。そういう中で、私も西脇工高の監督から声を掛けていただき、練習の見学と参加の機会をいただいたんです。ところが半年間 、全然運動してなかったこともあって、まったくついていけませんでした。

「陸上は中学でやめるつもりだったんです」

それでも友だちは「西脇工高に入ればもっと上を目指せるよ」みたいに言ってくれて、だんだんその言葉を信じてもいいのかな、と思うようになったんです。私は勉強をしたくてずっと塾に通っていたのに、という気持ちもありましたが、親は「最終的には自分が決めていい」と言ってくれて。自分の意志で陸上を選んだのは、そのときが初めてでした。

高校時代/心残りの全国駅伝2位

西脇工高では、中学のときから一緒に走っていた選手が多かったのでやりやすかったです。自分1人だと「きつい」と思ってしまうけど、みんな頑張ってるから自分も頑張ろうって気持ちになれる。そういうこともあって、その頃は1人で走るトラック種目より、みんなで走る駅伝のほうが好きでした。駅伝はチームに迷惑をかけられないから、自分のためにというより、チームのために走るという思いが強かったように思います。それに、駅伝はトラックと違って景色が変わるのも好きでした(笑)。

ただ、練習はめっちゃつらくて、最初の頃は貧血で何回か倒れました。少しずつ走れるようになってきたのは夏合宿くらいから。秋から駅伝を走らせてもらえるようになり、すぐにその魅力にハマりました。1年のときの全国駅伝(全国高等学校駅伝競走大会)でチームは5位、私は4区(3キロ)で区間賞を取ることができました。たすきをもらったときは2位の選手とほぼ同時だったので、とにかく最初から突っ込んでいったのを覚えています。都大路を走るのは初めてで、しかも先頭だったので、もう、すごく楽しかった。先頭を走っていると、先導してくれる白バイが前にいるじゃないですか。それがとてもかっこよく見えて、私もいつか白バイに乗って先導してみたいという気持ちも芽生えたりしました(笑)。

2位でゴールする西脇工高時代の後藤夢選手
(写真は神戸新聞社提供)

他に高校時代で思い出に残る試合というと、2年生のときのインターハイと、全国駅伝ですね。インターハイは800メートル(6位)と1500メートル(3位)で自己ベストを出せました。とくに1500メートルは1位が高橋ひなさん、2位が田中希実さん、3位が私と、西脇工高の3人で表彰台を独占したんです。私自身、全国でメダルを取ったのはこのときが初めてだったので、うれしかったし、自信になりました。 駅伝だけじゃなく、トラックも面白いなって思えた試合でした。

この表彰台独占で西脇工高は強いということが全国的に知れ渡って、駅伝は絶対に優勝するだろうと言われたんですけど、結果は2位でした。それが未だに心残りというか。あれだけメンバーが揃っていたのに、なんで優勝できなかったんだろうって。そういう意味で、記憶に残る試合でしたね。

工業高校というと男子が多いと思われますが、私がいた情報・繊維科(現在は工業化学科と統合しロボット工学科に改編)はほぼ女子で、男子は2、3人しかいませんでした。クラスのみんなとは3年間ずっと一緒で、陸上の応援に来てくれたりして、すごく仲良かったです。

思い出すのは修学旅行ですね。修学旅行は1月にあって、長野でスキーをした後に東京へ行く日程だったんですけど、私と田中希実さんは全国都道府県対抗女子駅伝競走大会の兵庫県代表に選ばれていて、試合が長野の時期と被っていたんです。それで、せめて東京には行かせてほしいとお願いし、試合後に京都から東京へ移動して合流させてもらったんです。修学旅行には絶対行きたかったんですよね。帰ってきたら、みんな「楽しかったね~」って言い合うのが目に見えていたから(笑)。

大学時代/授業と陸上の毎日

高校時代はやりたかった勉強があまりできなかったということがありました。それで大学は、しっかり勉強することができて、スポーツ科のある関西の大学を探し、同志社大学を受験することに決めました。試験は面接と小論文でした。同志社大学の先輩でオリンピックに出場した選手が大勢いるので、私もそういう選手を目指しています、と面接で言ったのを覚えています。オリンピックという言葉を口にしたのは、このときが初めてでした。

大学では体育会陸上競技部には入らず、同じく同志社大学に進学した田中希実さんと一緒にクラブチームに入りました。陸上部に入って学連(日本学生陸上競技連合)に所属しないと、インカレ(全日本学生選手権)やユニバーシアード(現:FISUワールドユニバーシティゲームズ)には出られません。でも、私としてはさらに上のレベルを目指したかったので、腹をくくって厳しい道を選択することにしました。

クラブのメンバーは田中さんと私の2人だけ。最初は高校の先生に練習を見てもらっていたのですが、2年目からは陸上選手だった田中さんのお父さんにコーチをしてもらいました。ただ高校時代のように、監督に言われるまま練習をするというのではなく、自主性に任せられていたので、自分で率先して練習をしなくてはいけませんでした。もちろん、自分が動きたいように動けるというメリットはあるのですが、 一方で相談相手がいなかったのが正直苦しかったです。田中さんと常に一緒に練習していたわけではないし、どうしていいかわからないときは親に当たってしまうこともありました。

「個人練習は、相談相手がいないので大変でした」

大学時代は授業と陸上の毎日でしたね。自分で時間を自由に使えたので、図書館に寄って勉強をしてから練習、ということもよくありました。大学のご厚意でグラウンドは自由に使っていいと言われていたので、それにはとても感謝しています。そういう自主性を尊重してくれる同志社大学に入って、ほんとうに良かったなと思います。

授業はいろいろ受けていましたよ。一つのものを極めるというよりは、幅広くいろんなことを知って、自分の視野を広げたかったので。韓国語やフランス語、あとは法律に興味があったので、犯罪者の心理とか、法律関係の授業をいくつか取っていました。ゼミはスポーツ全般をテーマにしている研究室に入り、「唾液でわかるストレス」というテーマで卒論を書きました。自分をサンプルにして唾液を取り、体調や精神面との相関関係を調べたんです。

やっぱり、陸上だけだとどうしてもしんどくなるときがあるんですね。だから、勉強が気分転換になっていたということもあります。いまは社会人になって陸上に集中していますが、将来、陸上をやめたときに何もできないというのは嫌なので、そのためにもちゃんと勉強をしておきたかった。大学は自分のしたいことを見つける場所でもあったと思います。

田中希実さんのこと/世界陸上のこと

「世界陸上は、強くなるためのヒントが
たくさん転がっていました」

田中希実さんは中学の頃からライバルで、高校からはチームメイトでした。同じ環境で走ることができたことは感謝しかありません。田中さんから学ぶことも多く、ここまで自分自身を引っ張ってこれたのは彼女がいたからだと思います。お互いの頑張りが今の私の励みにもなっていますし、自分自身を奮起させてくれると信じています。まだ私は世界のレベルには程遠いですが、少しずつでも近づければいいな、と思っています。

今年、初めて出場した世界陸上(ブダペスト2023世界陸上競技選手権大会。8月19~27日)はあっという間でしたが、世界のトップで戦う選手は自分とは違う世界の人だと思いました。特に、陸上競技にかける思いやタフさはまったくレベルが違うと肌で感じました。

予選から勝負ができなかった面も含めて、自分の弱さを痛感するとともに、いま思い返せば強くなるためのヒントがたくさん転がっていたようにも思います。レースが始まるとみんながライバルですが、終わった後にはお互いを称え合う姿に尊敬を覚えましたし、満員になった観客席のみなさんもスポーツを楽しむ姿が印象的で、やるからには私自身も楽しみたい、純粋に強くなりたいと思いました。

高校生のワタシへ

“いろいろな選択は自分で責任を持ってすること、そして決めたなら覚悟を持って突き進め”、ということですかね。もともと根は負けず嫌いなんですが、それさえも表に出したくないくらい弱気なので、自分の意志や意見を押し殺してしまうところがあったり、周りからの声掛けに対しても、果たしてそれが本音なのか、ただの慰めなのか、と疑念を抱いたりしてしまうこともよくあります。自己肯定感の低さは自分でも感じていますが、今の自分を認めると、そこからは前に進めないと思ってしまいます。いい意味でも悪い意味でも、いろいろと周りにしてもらい、決められてきたぶん、自分の軸が疎かになってしまっているように感じています。何をするにも結局は自分であり、周りに流されることなく自分の考えをしっかり持って行動していきたい。今の自分にも強く言えることですが、常に責任感を持って覚悟を決めろ、と高校生のワタシには言いたいです。

ごとう 後藤 ゆめ さん

2000年、兵庫県加古川市生まれ。高校駅伝の名門・西脇工業高等学校では、2年のとき全国高校駅伝女子で2位(区間3位)、3年のときは全国都道府県対抗女子駅伝で兵庫県優勝に貢献(区間賞)。同志社大学時代は2020年日本選手権1500メートルで3位に入るなど、主に1500メートルで頭角を現す。卒業後は豊田自動織機を経て、23年からユニクロに所属。金栗記念選抜陸上中距離大会(4月)では田中希実選手を抑えて優勝、アジア選手権(7月)は銀メダル、ブダペスト世界陸上(8月)は予選敗退、杭州アジア大会(9~10月)では5位入賞を果たした(種目はいずれも1500メートル)

取材・文/駒井允佐人

撮影/山本仁志(フォトスタジオヒラオカ)

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