高校生のワタシへ

自分の高校時代を
振り返って、思うこと。
同志社大学卒業生に聞きました。

vol.01

ひどい負け方だった甲子園の2敗。
でも、充実した高校時代でした。

澤井 芳信さん

株式会社スポーツバックス 代表取締役社長

2003年、文学部社会学科産業関係学専攻

(現・社会学部産業関係学科)卒

1998年、夏の甲子園決勝。常勝軍団・横浜高校、そして怪物・松坂大輔に挑んだ京都成章高のキャプテンが、澤井芳信さんだ。同志社大学から社会人野球を経て、株式会社スポーツバックスを立ち上げた澤井さんは、テレビドラマ「オールドルーキー」のモデルとしても知られる。あの熱い夏、そして高校時代を振り返ってもらった。

野球との出会い/京都成章高へ

地元の少年野球チームに入ったのは小3のときです。兄が野球をやっていたこともあり、物心がつく頃にはバットを振っていたようです。でも、チームは万年1回戦負けでした。レフトの子なんかいつもポケットにお菓子を入れていて、守備の合間に座って食べてましたからね(笑)。そんなゆるーい感じのチームでした。

中学も野球部で、3年生のときはキャプテンでした。内野手でしたが、最後の夏は背番号1。京都市でベスト16でした。この年、京都成章が初めて甲子園に出場したんですが、練習会を開くというので、自分も参加したんです。成章といえば進学校だし、野球部は甲子園初出場を果たしたので、次は甲子園1勝を目指すという。それで、成章を受験することにしました。

2対18/センバツ大会の屈辱

僕はピッチャーをやる気満々でした。入部初日、ピッチャー志望の子の投球練習を見てもらえるというので、ブルペンに行ったんですが、投げる前から監督に「お前は内野や」と(笑)。そこからショートをやるようになりました。1年の秋にレギュラーになったんですが、僕はその頃から「絶対、甲子園に行こうな」と公言してましたね。みんなには笑われてましたけど。当時の京都は、平安高(現・龍谷大付属平安高)、北嵯峨高、京都西高(現・京都外大西高)あたりが強く、有望な選手を集めてました。僕らはというと、甲子園1勝が目標といっても、同級生は14人中12人が軟式出身でしたからね。

練習は厳しかったですよ。練習は夜8時くらいまででしたが、僕らの代は野球に対してまじめな選手が多く、全体練習の後に個人練習をめっちゃするんです。でも、それだと8時17分発の駅行きのバスに間に合わない。それで時間に縛られないようにと、ほとんどの部員が自転車で駅と学校を往復していました。ただ、この道がえらい坂道なんですよ。帰りは下り坂だからいいんですが、学校に行くときは20~30分、ずっと上り坂。あれでだいぶ足腰が鍛えられましたね。

「僕らは、京都ではどこよりも
練習したという自信がありました」

1998年は春のセンバツにも出場しましたが、実は僕ら、甲子園に出る前に3回も負けているんです。まず1次予選で平安高に負け、2位通過で出た2次予選の決勝で京都西高に負け、そして近畿大会の準決勝で郡山高に負け。それでもセンバツに選ばれたのでうれしいはうれしかったですけど、やっぱり不安要素はありますよね。結局、甲子園は初戦で岡山理大附属高に2対18。甲子園はコールドゲームがないから点を取られるだけ取られて、もう地獄ですよ。その日の夜、宿舎の裏の河川敷に何人か集まって、「絶対強くなろうな!」「やるしかない!」と、涙をこらえながら声を掛け合いました。青春でしたね(笑)。

それからは以前にもまして練習はハードになりました。強豪校に勝つためには新しいことをやらなあかんということで、コンディショニングとメンタルトレーニングに一層力を入れましたし、自主練も率先して、昼休みにバットを振ったりしてました。エースピッチャーなんかは練習を終えると自転車にも乗らず、駅まで走って帰ってましたからね。とにかく僕らは、京都ではどこよりも練習したという自信がありました。

春のリベンジ/怪物・松坂との対決

しかし、夏の京都大会は順調ではありませんでした。2回戦、3回戦は公立校、進学校を相手に接戦でしたし、準々決勝の大谷高戦は中盤まで2-6で負けていました。何とか逆転し、9回裏はスクイズを外してゲッツーで逃げ切るというきわどい試合(8-7)。このヤマを乗り越えて、何とか甲子園の切符をつかみました。

僕らの目標は春のリベンジ、とにかく1勝して校歌を歌うことでした。だから勝ち進んでも先のことを考える余裕はありませんでしたね。もう、一戦必勝です(1回戦仙台高に10-7、2回戦如水館高に5-3、3回戦桜美林高に5-1、準々決勝常総学院高に10-4、準決勝豊田大谷高に6-1)。そして、最後に残ったのが横浜高でした。

横浜高は僕らと同じ高校生ですが、何かテレビの世界のチームという感じで見てましたね。うちのエースは「ここまできて大量失点したらどうしよう」と不安もあったらしいですが、僕はワクワクしてました。僕は1番バッターで、真っ先に松坂投手と対戦するわけです。部長からは1球目から仕掛けろと言われたので、まずバッターボックスの一番後ろに立ってみました。

ノーヒットノーランの口火となった松坂投手の第1球。
打者は澤井さん(写真は朝日新聞社提供)

1球目、ストレート。「あれ?」という感じでした。それほど球が速く感じなかったんです。2球目、今度はボックスの一番前に立ちました。横浜のキャッチャーとサードはセーフティバントを警戒したようです。僕はストレートの一点張りで、1、2の3で打ちに行ったらジャストミートでサードを強襲。結局、アウトにはなりましたが、後で書かれたものを読むと、松坂投手はこの1球で「目が覚めた」らしいです。決勝戦は打たせて取るつもりだったのに、「舐めたらいけない」と。

それからの松坂投手は、ストレートは速いし、スライダーは速くてよく曲がるし、そこにチェンジアップを混ぜてきたりするから手に負えない。5回くらいで「まだノーヒットだな」と気づいたんですが、すらすらと試合が進んでしまってあがきようがないんですね。終わりに近づくにつれて、球場全体がノーヒットノーランを期待しているのがわかるんです。球場が揺れるんですよ。僕ら関西のチームやのに、7割以上は横浜の応援ですからね、アウェー感がすごかった(笑)。

結局この試合、僕らは外野に2本しか飛ばせなかったと違いますか。横浜も3点取っただけだし、試合時間は2時間かかってない(1時間46分)。気がついたら負けてたという感じですが、試合終了の瞬間は清々しかったです。もちろん悔しくて泣きましたけど、「やりきった」という気持ちのほうが強かった。センバツのボロ負けから、夏は決勝戦まできて、横浜と戦えた。甲子園の2敗はどっちもひどい負け方でしたけど、充実した高校時代でしたね。

準優勝盾を持った澤井さんを先頭に、
場内を1周する京都成章ナイン(写真は日刊スポーツ提供)

大学進学/そして第2のステップへ

高校時代は野球漬けでしたが、勉強も頑張りましたよ。授業中に寝てたり、赤点を取ったりしたら、練習させてもらえませんでしたから。大会前になると試験1週間前でも部活は休みにならないんですよ。練習を終えて夜の10時くらいに帰宅したら、ごはんを食べてまず寝る。で、2時か3時に起きて勉強し、そのまま学校に行くというのが僕が編み出した試験勉強法でした。

甲子園のあと、大学では関西学生リーグで野球をしたいと思っていたので、声をかけてもらった同志社大を受けることにしました。試験は面接と小論文。受験が決まってからは国語の先生に、「毎日、新聞の社説を読んで小論文を書け」と言われ、添削してもらいました。この特訓のおかげで論文の書き方はだいぶわかるようになりましたね。入ったのは、文学部社会学科産業関係学(現・社会学部産業関係学科)。労働と雇用について学ぶ学問で、実は、これが今の仕事に生きているんですよね。

大学では3年までにゼミ以外の単位を全部取り、4年は野球に集中してプロ野球を目指すという計画でした。実際、3年の秋は関西学生リーグのベストナインに選ばれ、ドラフト候補にも名前が挙がったんですが、4年になるとどういうわけか絶不調になってしまった。結果を求めすぎたのかもしれません。結局、ドラフトにかからず、かずさマジック(社会人野球の市民球団。現・日本製鉄かずさマジック)に入ったのですが、ここでもレギュラーをとれない。それでプロをあきらめて4年後に引退、高校時代の先輩が入っていたスポーツマネジメントの会社に入ることになったのです。

オールドルーキー/上原浩治との出会い

会社では、シンクロスイマーの武田美保さんや、競輪選手の長塚智広さんのマネージャーを担当しましたが、入社まもない頃は元横綱若乃花のちゃんこ店の手伝いもしました。洗い場とかホールとか厨房とか、なんでもしましたよ。おかげでドリンクやだし巻き卵をつくるの、めっちゃうまくなりました(笑)。2022年秋に、「オールドルーキー」というテレビドラマが放送されましたけど、実はあのモデルは僕なんです。あの中で綾野剛さんが飲食店で働くシーンがありますが、あれは実は脚本家の取材を受けて、モデル像にしていただいたんです(笑)。

この会社で一番大きかったのは上原浩治さんとの出会いですね。上原さんがメジャーリーグに挑戦するときに担当になり、僕もアメリカで生活していました。2年後、日本に戻ったのですが、その数年後に会社の経営が悪くなって辞めざるを得なくなった。それで退社のあいさつに行ったら、「お前と一緒にやるから、独立せえよ」と言われたんです。うれしかったですね。帰国してすぐに「会社の作り方」という本を読みました(笑)。会社は2013年に立ち上げて、いま所属クライアントは14人になりました。選手だけでなく、トレーナーなどスポーツに関わる人たちのマネジメントもしています。

上原浩治さん(左)との出会いが
澤井さんの運命を変えた(写真は澤井さん提供)
スポーツバックスでは、野球、バレーボール、水泳、自転車、ゴルフなどのアスリートだけでなく、
管理栄養士やヨガセラピストなどもマネジメントしている

高校生のワタシへ

実は高校生のとき、トム・クルーズが主演した「ザ・エージェント」という映画を観たんです。当時は自分自身、プロ野球やメジャーリーグを目指していたので、こういう仕事もあるんやなあ、と思ったくらいでした。まさか自分がトム・クルーズと同じような仕事をするとは思ってませんでしたね(笑)。2020年にマネジメント契約した鈴木誠也選手のシカゴ・カブスへの入団が決まったときは、今、あの映画の世界にいるんやなと、感慨深いものがありました。

高校時代の自分に声をかけるとしたら、ですか? なかなかむずかしいですね(笑)。大学の後、社会人チームでプレーしたり、ちゃんこの店で働いたり、いろいろ遠回りしたように見えるけど、全部が将来につながっている。人生には、その時々でいろいろ決断しなくてはいけないときがあるから、そのとき後悔のない選択をしろよ、ということですかね(笑)。

さわい 澤井 よしのぶ 芳信 さん

1980年、京都府生まれ。京都成章高校では主将を務め、98年夏の甲子園準優勝。同年の国体でも決勝で横浜高と対戦し、1対2で惜敗。同志社大学では3年時に関西学生リーグベストナイン。社会人野球「かずさマジック」(現・日本製鉄かずさマジック)での現役生活を経て、スポーツマネジメント会社に就職。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程修了。2013年に株式会社スポーツバックスを設立。

取材・文/駒井允佐人

撮影/今村拓馬

PAGE TOP