高校生のワタシへ

自分の高校時代を
振り返って、思うこと。
同志社大学卒業生に聞きました。

vol.03

「兼業作家」志望から、売れっ子作家へ。
大学在学中、チャンスは突然訪れた。

武田 綾乃さん

小説家

2016年、同志社大学文学部 美学芸術学科卒

金管バンド部、吹奏楽部での体験をもとにした青春小説『響け!ユーフォニアム』シリーズが、アニメ化されるなど大ヒット。同志社大在学中に作家デビューし、2021年には『愛されなくても別に』で吉川英治文学新人賞を受賞。小4から小説を書き始め、「兼業作家」になりたかったという武田綾乃さんの軌跡を追った。

文学少女/小4で小説を書き始める

子どもの頃から本が好きで、『こまったさん』(あかね書房)や『ズッコケ三人組』(ポプラ社)のシリーズ、青い鳥文庫(講談社)などの児童書をたくさん読んでました。ファンタジーやミステリー、名作など、ジャンルはいろいろです。そのうち『ハリー・ポッター』シリーズに影響されて、小4の頃から小説を書き始めました。といっても思いつくまま、ノートの1、2ページに物語のさわりを書くだけで、全然形になっていなかったんですけどね。

小6の頃かな、芥川賞を受賞した綿矢りささんの『蹴りたい背中』を読んで、初めて純文学というものを知りました。別に大きな事件が起きるわけでもなく、ただ人間の内面を深く掘り下げていく。そういう小説をそれまで読んだことがなくて、私も純文学を書いてみたいと思うようになりました。

国語の成績は良かったと思いますよ。でも、読書感想文は苦手でしたね。読書感想文って、決められた本を読んで、何も思わなくても書かなくちゃいけないじゃないですか。それがなんだか嘘をついているみたいで。小説はフィクションだから嘘をついても全然気にならないんですけどね(笑)。

金管バンド部/ユーフォニアムとの出合い

金管バンドでチューバを吹く小学生当時の武田さん(写真は武田さん提供)

小5のとき、金管バンド部に入りました。転校生だったので学童保育に入るのがちょっと気まずくて、でも、金管バンド部に入れば放課後も友だちと一緒に過ごせるよって親が薦めてくれたんです。ユーフォニアムの担当になったのは、単純にその楽器が余ってたから。金管バンドで人気なのは、やっぱりトランペットやトロンボーンだから、ユーフォニアムをやる人がいなかったんです。私は途中入部だし、余っている楽器しか選べなかったということですね。でも私、低音好きなので、全然問題ありませんでした。私はユーフォニアムと、それよりさらに大きなチューバを担当したんですが、低音パートの楽器って音楽の土台というか、人を支える楽器なんですよね。それにメロディアスなところもあって、そのバランスが魅力的なんです。ただ、重い(笑)。ユーフォニアムが4~5kg、チューバが10kgくらいあるので、体を壊しちゃう子もいました。もう一つ言うと、楽器によって、それが好きな人の性格が出るんですよね。ユーフォニアムやチューバ、コントラバスなどの低音パートの楽器は、優しくて温厚な人が集まりやすい(笑)。喧嘩が嫌いで、みんな仲がいいんですよ。

実は、もともと音楽好きというわけではなかったんです。子どもの頃からピアノを習っていたんですが、左手が不器用だったので、うまく弾けなかったんですよ。そこへいくと金管楽器はピストンが3つしかないから、右手を使うだけで済む(笑)。すごく自分向きの楽器だなと思いましたね。

吹奏楽部/金賞受賞で燃え尽きる

「指導者の力ってすごいと思うのは、
部員の力の上限が引き上げられるんです」

小学校と中学校は公立で、両方とも近所にありました。ただ中学はすごく大きな学校だったので、クラス替えがあるとそこで友だち関係が途切れちゃうんですね。それが嫌だったので、部活は吹奏楽部にしました。吹奏楽部に入れば、友だちの誰かが必ずいますからね。当時は、「笑ってコラえて」(日本テレビ系のバラエティ番組「1億人の大質問!? 笑ってコラえて」。1996~2009年放送)や映画の「スウィングガール」(2004年公開、東宝配給)のおかげで、すごい吹奏楽ブームだったんです。とくに「笑ってコラえて」の「日本列島 吹奏楽の旅」に出たりすると、普通の高校生がスターになって、ファンがついたりして、すごい人気なんです。うちの吹奏楽部はそんなに強い学校ではなかったんですが、それでも部員が100人くらいいました。学年の女子の2分の1から3分の1は吹奏楽部に入ってたんじゃないですかね。

それだけ多いと、やっぱりいろんな揉め事がありますから、必然的に人間観察するようになりますよね。これが強豪校で、みんなが「大会に出て勝ちたい」という共通の目標を持っていれば、意外と揉めないんです。ところが、目的がバラバラな子たちが集まった吹奏楽部は本当に大変です。例えば、部員が通う塾にも派閥があって、同じ塾に通う子たちが夏期講習などで一斉に休んだりすると、別の塾の子たちが「大会が近いんだから塾なんて休みなさいよ」と言って揉め始めるわけです。私なんかは正直、関西大会に出るような学校でもないからどっちでもいいと思っていたんですが、特別指導で臨時コーチが来たりすると、みんな目に見えて上達するんですね。指導者の力ってすごいと思うのは、部員の力の上限が引き上げられるんです。吹奏楽は団体競技なので、1人だけめちゃくちゃうまくても結果にはつながらない。大谷翔平さんがホームランを打ってチームが勝つというのとは違うので、全員をまとめる先生の力が大事なんです。そうしてレベルアップすると「これなら大会で上を目指せる」という子もいるし、「やっぱり無理だよ」という子もいる。とにかくいろんなところで意識の乖離があるんですよね。

練習は土日も朝9時から午後4時まであったし、平日の休みは木曜だけ。運動部のような厳しさでした。結局、臨時コーチのおかげもあって、3年生のときに京都府で金賞をとれたんですが、もう本当に心身ともに燃え尽きてしまって。それで、高校では吹奏楽部に入りませんでした。

文芸部/部誌への投稿で腕を磨く

高校は、自宅のある宇治から電車で1時間半かかる嵯峨野高校に通いました。嵯峨野高校は、堀川高校、西京高校と並ぶ難関の公立校で、教育方針がすごく独特なんですね。当時は初めから人文系と理数系に分かれていて、私は人文系に入ったんですが、とにかくみんなキャラが濃くて(笑)。この高校を薦めてくれたのは塾の講師だったんですが、本当に自由な校風で、いい学校でしたね。

部活は最初、空手部に入りました(笑)。でも朝練がきつくて1週間でやめて、しばらく帰宅部ライフを楽しんでいました。文芸部に入ったのは、高1の冬です。今の文芸部はすごく熱心に活動しているようですが、当時は半年に1回出す部誌のために原稿を書いて載せるだけ。部員が5、6人しかいなくて、定期的に集まって何かを学ぶわけでもない。一緒に入った子以外は顔も知らない、超気楽な部でした(笑)。

私がいっぱい書くものだから部誌には私の小説が大量に掲載されていたんですが、青春小説が多かったですかね。とにかく短編を量産していました。勉強そっちのけで書いていたので、学校の成績は見る間に落ちましたが(笑)、この部誌への投稿のおかげで、文章はどんどん上達しました。

作品を書き上げると、まず友だちに見てもらっていました。実は子どもの頃、自分が書いたものを人に見せるのがめちゃくちゃ嫌だったんです。でもあるとき親に「書いたものは人に見せて初めて善し悪しがわかるんだ。プロを目指すなら、人に見せないと」と言われ、友だちに見せるようになったんです。親には見せなかったですけどね(笑)。部の顧問の先生もあまり評価することがなかったので、作品を講評してくれる友だちが、指導者に近い存在でした。

2013年のデビュー以来、武田さんは青春小説やミステリーを中心に次々と作品を発表している

小説家あるあるですけど、結局小説は最初から最後まで書き上げるのが一番難しいんですよね。私も子どもの頃は思いついたものを書くだけで、話を完結させることができなかったのですが、部誌にたくさん投稿していくうちに、終わり方を決めてから書くようになった。それで書き方がわかるようになって、一気に伸びたように思います。こういう訓練がなかったら、私の小説家としてのデビューはもっと遅くなっていたと思いますね。

高校時代は、人生で一番本を読んだ時期でした。時代小説も、ノンフィクションも、海外の小説も、もう何でも読んでいました。文庫本を1冊読むのに2時間半くらいなので、だいたい1日1冊のペース。電車通学に1時間半かかっていたので、短いものなら片道で読み切っていました。好きな作家は挙げたらきりがありません。そのなかでも特に印象に残っている作品というと、辻村深月さんの「凍りのくじら」とか、宮部みゆきさんの「模倣犯」でしょうか。当時は森見登美彦さんの「夜は短し歩けよ乙女」も人気がありましたね。京都を舞台にした長編小説なので、京都の学生はみんな読んでたんじゃないでしょうか。

大学/兼業作家志望から専業作家へ

大学は家から通えるところ、というのが第一条件でした。国立なら京都大か大阪大、私立なら同志社大か立命館大が志望校でしたね。一浪したんですが、この浪人時代もまた楽しかったんです。家の近くの塾に通ったのですが、みんな勉強の合間に息抜きでオセロをしているようなゆるーい塾で。私は浪人中もずっと小説を書き続けていたんですが、時間があるから枚数を書きすぎて、どこにも応募できなかったりして(笑)。でもそのおかげで長編を書けるようになったので、思えばこの浪人時代の経験も、いまにつながっていると思います。

同志社大では、文学部美学芸術学科に入りました。中国画や日本画の“平べったい絵”がなぜか好きで、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)の研究をしていました。この人はもうめちゃくちゃ絵がうまくて、作品を並べた時にどれが河鍋暁斎の絵かわからないくらい画風が広いんです。ユーモアのある戯画もすごく上手で、本当に魅力的な画家だと思いますね。

大学生になって、1年間に4つぐらい賞に応募しようと計画を立てたんですが、一回生の夏に人生で初めて応募したのが、宝島社の「第8回日本ラブストーリー大賞」でした。とにかく夏休みに書き切らなきゃと思って、高校の美術部を題材にした『今日、きみと息をする。』という作品を急いで書いて送ったんです。締め切りぎりぎりだったので校正もせずに送ったんですが、これがそのままデビュー作になってしまいました(大賞は逃したものの、2013年5月に宝島社文庫から出版)。

実は私、子どもの頃から「兼業作家になる」って公言していたんです。兼業作家というのは、普通に会社で働きながら小説を書く作家のことです。理想は公務員や定時に上がれそうな会社に就職することでした。なぜそれを目指したかというと、作家だけで食べていけるイメージがなかったから。フリーターでバンドを目指すより、公務員になって定時に上がってきっちり練習したほうが、実はうまいんじゃないかってよく言われるんですが、それに近い感覚かな。とにかく作家になるにしても経済的な基盤はちゃんとしていたほうがいいと子どもの頃から思っていたので、それについて誰からも反対されることはなかったんです。

そうして仕事をしながら本を書いて、30歳くらいまでにデビューできればいいと思っていたので、いきなりのデビューはちょっと予想外でした。でも、デビューしたからには作家として生き残らないといけない。最初の3年をいかに生存するかで、作家はみんな戦うんですよね。それで、2作目は吹奏楽部をテーマにしたいと提案しました。吹奏楽部の話なら書くことがいっぱいあるし、思い出を忘れないうちに書きたいと思っていたんです。それで2013年12月に「響け!ユーフォニアム」の第1作を出したのですが、これがすぐにアニメ化されることになり、ますます忙しくなってしまった。この頃は大学が好きすぎて、卒業したら同志社大学の職員になりたいと思っていたのですが(笑)、たくさん小説を書かなければいけないし、卒論も書かないといけないしで、忙しすぎて就活のための時間が取れないんですね。それで、その流れのまま、専業作家になってしまった感じです。

「実は卒業したら同志社大学の
職員になりたいと思っていました(笑)」

「響け!ユーフォニアム」は2019年に本編が完結しました。スピンオフもあるので本当の完結ではないんですけどね。このシリーズは、急にアニメ化が決まってそこから走り続けてきた作品だったので、終わった時はもう「やりきった」という感じでした。その後、『愛されなくても別に』で吉川英治文学新人賞(2021年。2019年にも『その日、朱音は空を飛んだ』が吉川英治文学新人賞候補になっている)をいただいたのですが、私の作品は文学賞とは無縁だと思っていたので、そういう評価をされたのはありがたかったです。作家として、また可能性が増えたというか。これからも多岐に渡って、やりたいことを増やしていきたいと思っています。

高校生のワタシへ

意外とデビューは早いぞ、ってことですかね(笑)。私ってすごい心配症で、ありとあらゆる保険をかける癖があるんです。兼業作家を目指したのもそういう理由からですが、結局あれこれこねくり回して準備をしても、仕事やチャンスは急に訪れるんですよね。デビューする時も、この本でデビューしていいのかと結構悩んだのですが、「とりあえずやったれ」と思ってデビューしたら、それが「響け!ユーフォニアム」につながっていきました。結局いろいろ考えても状況は常に変化するから、 考えても無駄ということもある。とりあえず、やってみる。やりたいと思ったものには手を伸ばしてみる。そのとき来たチャンスは逃すな、って言いたいですね。

たけだ 武田 あやの 綾乃 さん

1992年、京都府出身。小学4年生から小説を書き始める。同志社大学1年次に「今日、きみと息をする。」を宝島社主催の日本ラブストーリー大賞に応募、2013年、同作でデビュー。同年12月に発表した「響け!ユーフォニアム」シリーズ(宝島社)が2015年にアニメ化、2016年に劇場アニメ化。2021年、『愛されなくても別に』(講談社)で吉川英治新人賞。そのほか主な著書に、「石黒くんに春は来ない」(幻冬舎)、「青い春を数えて」(講談社)、「君と漕ぐ ながとろ高校カヌー部」(新潮社)など。劇場アニメ「特別編 響け!ユーフォニアム〜アンサンブルコンテスト〜」が2023年8月4日公開予定)

取材・文/駒井允佐人

撮影/慎 芝賢

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